谷崎潤一郎は、日本の近代文学を代表する作家の一人です。
彼の作品世界は、独特の美意識と心理描写で知られています。
こちらの記事では、谷崎潤一郎の政治観や生い立ち、文学作品について解説していきます。
谷崎潤一郎と政治―「思想なき文豪」が直面した統制
谷崎潤一郎は、『東京をおもう』の中で、「政治の方に関心を持っていない」と自ら告白しています。
実際、彼の作品には特定の政治的意図が込められることはほとんどありませんでした。しかし、その文学が時代の波に翻弄されることを避けることはできませんでした。
代表作のひとつ『細雪』は、戦時中に当局から発禁処分を受けた作品として知られています。
細やかな筆致で日本の伝統美を描き、大阪船場の商家に生まれ育った四姉妹の生活をつぶさに綴ったこの作品は、いかなる意味においても政治的ではありませんでした。
しかし、1943年(昭和18年)、陸軍省報道部は「時局にそぐわない」として、連載を禁止しました。
翌年、谷崎は上巻を自費出版しましたが、これも印刷・頒布を禁止され、戦後になるまで全巻が世に出ることはありませんでした。
「時局にそはぬ」とされた『細雪』
『細雪』が戦時下で検閲に引っかかった理由は、その内容が戦争と無関係であったからでした。
戦局が悪化し、国民が総力戦体制に組み込まれる中で、伝統行事や日常生活の機微を繊細に描く谷崎の文学は、「贅沢」と見なされたのです。
谷崎はこの検閲について、「文筆家の自由な創作活動が或る権威によつて強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した」と述べています(「『細雪』回顧」)。
彼は政治に関与するつもりはなかったにもかかわらず、時代の流れによって作品が封じられ、自由に執筆することすら許されなかったのです。
政治を超えた文学――三島由紀夫の評価
三島由紀夫は、谷崎の文学について「大きな政治的状況を、エロティックな、苛酷な、望ましい寓話に変へてしまふ」と評しました。
谷崎の作品には、直接的な政治批判はありません。
しかし、彼の描く美と情念の世界は、時代の圧力から逃れるための避難所であり、ある種の抵抗の形でもあったのかもしれません。
政治に関心がなかったはずの谷崎が時局によって検閲を受け、自由を奪われるという経験をしたことは、彼の文学と政治の関係を象徴的に示しています。
谷崎潤一郎の生い立ち
谷崎潤一郎は、谷崎倉五郎と関の次男として、東京市日本橋区に生まれました。長男である熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は「長男」として提出されました。潤一郎の弟である谷崎精二は、のちに作家や英文学者(早稲田大学教授)として知られるようになります。
母方の祖父、谷崎久右衛門は一代で財を成し、父は江澤家から養子としてその事業の一部を任されていました。しかし、祖父の死後、事業はうまくいかず、潤一郎が阪本尋常高等小学校四年を卒業するころには家計が困窮し、上級学校への進学が危ぶまれる状況でした。
教師たちの助言により、潤一郎は住み込みの家庭教師として働きながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができました。彼は散文や漢詩に秀でており、特に一年生の時に書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせました。その成績の優秀さから「神童」と称されるほどでした。
1902年(明治35年)9月、16歳の時に潤一郎は、その才能を認められ、校長の勝浦鞆雄から一旦退学し、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるよう勧められました。試験に合格し、学年トップの成績を収めました。
本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めました。卒業後、第一高等学校に合格し、一高入学後には校友会雑誌に小説を発表しました。
谷崎潤一郎の文学活動
谷崎潤一郎は1908年(明治41年)、第一高等学校英法科を卒業後、東京帝国大学文科大学国文科に進学しましたが、学費未納のため中退しました。在学中には和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作である戯曲『誕生』や小説『刺青』(1910年)を発表しました。
これらの作品は早くから永井荷風によって『三田文学』誌で高く評価され、谷崎は文壇において新進作家としての地位を築きました。その後、『少年』や『秘密』などの作品を次々と発表し、自然主義文学全盛の時代にあって、物語の筋を重視する反自然主義的な作風で文壇の寵児となりました。
大正時代にはモダンな風俗に影響を受けた作品を発表し、探偵小説の分野に新しい試みを行うなど、表現において新しい挑戦を続けました。また、映画にも深い関心を示しました。
関東大震災後、谷崎は関西に移住し、ここから再び精力的に執筆活動を行いました。長編小説『痴人の愛』では、妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描き、大きな反響を呼びました。続いて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正時代から続くモダニズムと日本の伝統美を融合させた文学活動を展開しました。谷崎の美意識は『文章読本』や『陰翳礼讃』の評論によって広く知られています。
太平洋戦争中には、松子夫人とその妹たちとの生活を題材にした大作『細雪』に取り組みました。軍部による発行差し止めを受けながらも執筆を続け、戦後に全編を発表。この作品は毎日出版文化賞や朝日文化賞を受賞し、登場人物の二女「幸子」は松子夫人、三女「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっています。
戦後、谷崎は高血圧症が悪化し、取り組んでいた『源氏物語』の現代語訳も中断を余儀なくされました。しかし、晩年には『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』や『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞受賞)などの傑作を発表しました。1950年代には『細雪』や『蓼喰ふ虫』がアメリカで翻訳・出版され、ノーベル文学賞の候補には1958年から1964年まで7回選ばれました。特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)に残りました。
1964年(昭和39年)6月には、日本人として初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出されました。
谷崎潤一郎の代表作
ここからは、谷崎潤一郎の代表作を紹介します。
刺青(しせい)(1910年)
谷崎の初期の短編小説で、背中に刺青を入れた女性の美しさを描いています。
痴人の愛(ちじんのあい)(1924年)
ナオミという女性に翻弄される男の物語で、当時のモダニズムと西洋文化の影響を反映しています。
卍(まんじ)(1928年)
女性同士の愛と嫉妬を描いた小説で、複雑な人間関係が展開されます。
春琴抄(しゅんきんしょう)(1933年)
盲目の美しい琴師とその弟子との愛の物語。美意識と奉仕の精神がテーマです。
蓼喰ふ虫(たでくうむし)(1929年)
結婚生活の不調和と、主人公の夫婦がそれぞれ異なる価値観を持つことで生じる葛藤を描いています。
武州公秘話(ぶしゅうこうひわ)(1938年)
中世日本を舞台にした歴史小説で、権力と美の追求がテーマです。
細雪(ささめゆき)(1943年 – 1948年)
戦前から戦後の大阪を舞台に、姉妹4人の生活と心の葛藤を描いた大作です。
鍵(かぎ)(1956年)
日記形式で描かれた心理小説で、老夫婦の性愛と嫉妬がテーマです。
瘋癲老人日記(ふうてんろうじんにっき)(1962年)
老年期の性愛と狂気を描いた作品で、日記形式で進行します。
陰翳礼讃(いんえいらいさん)(1933年)
エッセイですが、谷崎の美意識を知る上で重要な作品です。日本の伝統的な美意識と西洋文化との対比を論じています。
谷崎潤一郎の関連人物
- 川端康成: 同時代の作家として、互いに影響を与え合い、文壇を牽引しました。
- 永井荷風: 谷崎は荷風を深く尊敬し、その文体や主題に影響を受けたとされています。
- 里見弳: 文芸評論家として、谷崎の作品を鋭く批評し、彼の創作活動に刺激を与えました。
- 菊池寛: 文芸雑誌『文藝春秋』の編集長として、谷崎の作品を積極的に紹介しました。
- 横光利一: プロレタリア文学の旗手として、谷崎とは異なる文学観を持っていましたが、文壇における存在感は互いに影響を与え合いました。
- 尾崎紅葉: 谷崎は、尾崎の耽美的な世界観に深く共感し、その影響を作品に反映させました。
- 夏目漱石: 谷崎は漱石のリアリズム小説を高く評価し、その写実的な描写を自身の作品に取り入れました。
- フランスの耽美主義作家: ボーデレール、モーパッサンなど、フランスの耽美主義作家たちの作品は、谷崎の美的感覚を大きく広げました。
- 石川千代子: 谷崎の最初の妻。彼女の存在は、谷崎の小説にもしばしば登場します。
- 石川せい子: 千代子の妹。谷崎はせい子に惹かれ、二人の関係は『痴人の愛』のモデルとなりました。
- 谷崎精二: 谷崎の弟で、英文学者。兄の文学活動にも関心を寄せ、交流を深めました。
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