坂口安吾は、昭和の日本を代表する小説家の一人です。
彼の波乱万丈な人生は、安吾独自の文学世界を生み出す上で重要な要素となりました。
本記事では、坂口安吾の生涯や代表作、人間関係についてくわしく解説していきます。
坂口安吾の生い立ち
坂口安吾は、1906年(明治39年)10月20日に新潟県新潟市で憲政本党所属の衆議院議員・坂口仁一郎と母・アサの五男として生まれました。
彼は13人兄妹の12番目で、本名「炳五(へいご)」の由来は「丙午(ひのえうま、へいご)」年生まれの「五男」からきています。
彼の祖先は旧家であったものの、祖父・得七の投機失敗によって没落してしまい、父・仁一郎の政治活動にもお金がかかって家計は逼迫。
仁一郎の後妻であった母親のアサは常に家計のやりくりや子育てに翻弄されており、安吾の目にはヒステリックで気丈な母として映ります。
そのため安吾は幼少期に母から愛された実感が持てず孤独を抱えて育ちましたが、一方では破天荒な性格でも知られ、ガキ大将として遊び回っていました。
その頃、母アサの兄は甥である安吾に対して、「お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な」と、言い放っています。
学業は優秀でしたが、新潟中学校入学後は視力低下で黒板の文字が読めなくなり、メガネを買ってもらうこともできなかったため、授業をサボることが増えました。
その後、ようやく買ってもらったメガネを友人が壊してしまい、ますます授業が嫌になり成績が落ちていきました。
中学2年時に4科目で不合格となり留年した坂口炳五は、「暗吾」と呼ばれ、これが「安吾」の由来となります。
1922年、安吾は教師に対して反抗的態度を取り続け、試験で白紙答案を提出するなどしたため新潟中学を3年で退学。9月に父親、長兄夫妻とともに奥多摩郡戸塚町(新宿)の借家に引っ越しをして、私立豊山中学校に編入しました。
転居先の環境を安吾は気に入り、しだいに文学への興味も大きくなります。谷崎潤一郎や石川啄木などを愛読し、さらに豊山中学ではスポーツにも熱中して、1924年に全国中等学校陸上競技会でハイジャンプ優勝の実績を作りました。
1923年9月1日には関東大震災が起き、同年11月2日に父・仁一郎が病死。安吾にとってショッキングな出来事が続きます。
1925年からは代用教員として荏原尋常高等小学校に採用されました。この頃、「安吾」と名乗るようになり、多くの文学書を愛読。
1926年、仏教研究のため東洋大学印度哲学倫理学科第二科に入学しましたが、猛勉強の結果、神経衰弱に陥りました。
1927年の芥川龍之介の自殺が追い打ちをかけ、自殺欲や発狂の予感を感じるようになりましたが、古今の哲学書や語学学習に励み、妄想を克服しました。
坂口安吾の文学活動
坂口安吾は中学時代から文学作品を読み耽り、特に「落伍者」と呼ばれる作家に強い憧れを抱いていました。
彼自身も「偉大なる落伍者」になることを夢見ており、その思いが文学への道を歩む原動力になったと考えられます。
坂口安吾のデビュー作は、1931年に発表された短編小説「木枯の酒倉から」です。安吾はこの時25歳でした。
「木枯の酒倉から」は、昭和時代の日本を背景にした短編小説で、社会の矛盾や人間の本質を描いた作品です。
物語は、酒に溺れながらも独自の視点で人生を見つめる男の姿を通じて、現代社会の虚しさや、人間の弱さと強さを描いています。
安吾の作風は、さまざまな題材を用いながらも人間の深層心理に迫る内容となっており、既存の価値観や体制に疑問を持ち、独自の視点から社会を捉えようとしているのが特徴です。
坂口安吾の代表作
1. 堕落論
安吾の代表作の一つであり、彼の思想の根底を垣間見ることができる作品です。
西洋のデカダン文学の影響を受けつつ、日本の伝統的な価値観との対比を描いています。
人間の堕落や欲望を赤裸々に描き出し、読者に衝撃を与えました。
2. 白痴
道徳や常識にとらわれない主人公の破天荒な生き様を描いた作品です。
主人公の行動は、当時の社会に大きな衝撃を与え、賛否両論を巻き起こしました。
人間の自由と孤独、そして存在意義を問いかける深いテーマが込められています。
3. 桜の森の満開の下
日本の伝統的な物語を題材に、現代人の心の闇を描き出した作品です。
美しい桜の下で繰り広げられる残酷な物語は、読者に強烈な印象を与えます。
人間の心の奥底に潜む狂気と欲望を暴き出し、人間の存在そのものを問い直しています。
4. 不連続殺人事件
ミステリー小説でありながら、安吾の独特な世界観が炸裂した作品です。
連続殺人事件を題材に、人間の心の闇を描き出し、読者をミステリーの渦に引き込みます。
5. 風と光と二十の私と
安吾の自伝的小説であり、彼の青春時代を描いています。
文学への情熱、友人との友情、そして家族との葛藤など、様々な出来事が赤裸々に綴られています。
坂口安吾と妻 三千代の関係
坂口安吾の私生活、特に妻との関係は、彼の文学作品に深く影響を与え、多くの読者の興味を引いてきました。
1947年、安吾は、新宿のバー「チトセ」で三千代と出会います。三千代は、安吾の友人である谷丹三の妻・房子と長唄を習う仲でした。安吾は、三千代を秘書として雇い、やがて共に暮らすようになります。
安吾の文学作品には、三千代との関係が色濃く反映されています。例えば、「悪妻論」では、三千代をモデルにしたと思われる女性が登場し、安吾の複雑な女性観が描かれています。
1955年に安吾が急逝したあとも三千代は文筆活動を続け、安吾との日々を綴った随筆も発表しました。
坂口安吾の関連人物
- 谷崎潤一郎: 安吾が最も尊敬していた作家の一人。谷崎の耽美的な世界観は、安吾の文学にも大きな影響を与えました。
- 石川啄木: 安吾は啄木の詩を愛読しており、その影響は彼の詩作にも見られます。
- 太宰治: 同時代に活躍した作家であり、安吾とは友人関係でした。
- 織田作之助: 安吾と同様に、戦後の無頼派作家として知られています。二人の作品には共通点も多く、比較されることがあります。
- 大野璋五: 安吾が晩年を過ごした蒲田の家の近所に住んでいた人物。安吾の友人であり、彼の生活を支えました。
- 小林秀雄: 文芸評論家。安吾の作品を高く評価し、その才能を世に広めました。
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