三島由紀夫は、20世紀の日本文学を代表する小説家の一人です。
その華麗な文体と、美と死、愛と憎しみといった深淵なテーマを描き出す独特の世界観は、読者を魅了し続けています。
本記事では、そんな三島文学の魅力に迫り、代表作や思想について解説していきます。
三島由紀夫の生い立ち
三島由紀夫は1925年1月14日、東京の四谷で父・平岡梓と母・倭文重の間に長男として誕生。本名の「公威(きみたけ)」は祖父が恩人の名前にちなんで名付けました。
家は大きな借家で、家族と多くの使用人が住んでいました。父は東京帝国大学卒業後、官僚として働いていましたが、大蔵省を面接で不採用となり農商務省にて勤務。母は儒学者の家系で、祖父は元内務官僚で福島県知事や樺太庁長官を務めていました。
幼少期、公威は祖母・夏子に育てられ、「溺愛」と「厳しいしつけ」という複雑な環境の中で成長しました。幼い頃から文学に親しみ、6歳で学習院初等科に入学したあとは詩や俳句を発表するように。
病弱だったため、集団生活ではイジメにも遭っていました。
中等科に進学すると文学への関心がさらに深まり、多くの作品を発表。学校生活では友人との関係に苦労していましたが、文芸部での活動を通じて文学的な才能を開花させていきました。
三島由紀夫の文学活動
三島由紀夫(本名:平岡公威)は学習院初等科1、2年の頃から、詩や俳句を初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めました。
彼は読書が好きで、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社の『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読していました。
1936年(昭和11年)、公威が初等科6年の時、二・二六事件が起こりました。このため、授業は1時限目で中止となり、先生から「学習院学生としての矜持を忘れないように」と訓示を受けて帰宅しました。同年6月には、作文「わが国旗」を書き、日の丸について〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と表現しました。
同年7月、公威は学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表しました。これが公威の散文作品が初めて活字になった瞬間でした。その後、中等科・高等科の約7年間で多くの詩歌や散文作品、戯曲を『輔仁会雑誌』に発表することとなりました。
1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「酸模すかんぽう――秋彦の幼き思ひ出」を書き、3月の『輔仁会雑誌』に発表されました。
同年10月には、祖母・夏子に連れられて初めて歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を観劇し、母方の祖母・橋トミにも連れられて初めて能『三輪』を観ました。この体験以降、公威は歌舞伎や能の観劇に夢中になり、17歳から観劇記録「平岡公威劇評集」(「芝居日記」)を付け始めました
1940年(昭和15年)1月、公威は破滅的心情を表現した詩「凶まがごと」を書きました。同年、母・倭文重に連れられて詩人・川路柳虹を訪問し、以後何度か師事を受けることとなりました。
1941年(昭和16年)1月21日、父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京しました。父は相変わらず文学に夢中な息子を叱りつけ、原稿用紙を破いたこともありましたが、公威は黙って下を向き、涙をためていました。
同年4月、公威は中等科5年に進級し、7月には「花ざかりの森」を書き上げました。この作品は国語教師の清水文雄によって評価され、日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』に掲載されることが決まりました。その際、公威は本名ではなく、「三島由紀夫」という筆名を使うことになりました。
「花ざかりの森」はリルケと保田與重郎の影響を受けたもので、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載されました。
「花ざかりの森」が賞賛され、文壇からの注目を浴び始めた三島由紀夫は、作家として本格的な活動を始めることとなりました。
三島事件(憲法改正のためのクーデター未遂事件)
1970年11月25日、当時45歳だった三島由紀夫は、自身が率いていた学生団体「楯の会」のメンバー4人とともに、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を占拠しました。
三島事件の概要
- 占拠:三島らは、総監室を占拠し、総監を人質に取りました。
- 演説:三島は、バルコニーから自衛隊員に向けて演説を行い、日本を取り戻すための決起を呼びかけました。
- 自決:演説後、三島は腹を切ります。森田必勝が介錯を行い、2人とも死亡しました。
三島事件の背景
三島由紀夫は、高度経済成長期の日本社会が精神的な空洞化に陥っていると危惧し、伝統的な日本の価値観を取り戻すために立ち上がろうとしていました。
彼は、自衛隊にてクーデターを起こし、日本を再建しようと考えていたのです。
ただし三島は仲間と計画について話し合いをしている段階から、すでに「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っており、自決は想定内であったと考えられています。
この事件は、日本社会に大きな衝撃を与えました。三島由紀夫という文人が、なぜこのような行動に出たのか、その動機は今もなお謎に包まれています。
・三島と親しい付き合いのあった川端康成のコメント
「ただ驚くばかりです。こんなことは想像もしなかった――もったいない死に方をしたものです」
・作家 石原慎太郎(当時参議院議員)のコメント
「現代の狂気としかいいようがない」「ただ若い命をかけた行動としては、あまりにも、実りないことだった」
三島由紀夫の代表作
三島由紀夫は20世紀の日本文学を代表する作家の一人で、多くの重要な作品を残しました。
以下に彼の代表作10選を挙げます。
『金閣寺』(1956年)
実際の事件を基に、美の象徴である金閣寺を焼き払った若い僧侶の内面を描いた作品です。
『仮面の告白』(1949年)
自伝的要素が強く、自身の同性愛を告白する主人公の葛藤を描いた作品です。
『潮騒』(1954年)
島を舞台にした純愛物語で、若い男女の純粋な愛を描いています。
『憂国』(1961年)
一人の青年将校の愛国心と、その妻との愛を描いた短編小説です。
『豊饒の海』四部作
- 『春の雪』(1968年)
- 『奔馬』(1969年)
- 『暁の寺』(1970年)
- 『天人五衰』(1971年)
日本の近代史を背景にした壮大な物語で、転生をテーマにしています。
『美しい星』(1962年)
宇宙人を自称する家族が地球の平和を守るために奮闘する風刺的なSF小説です。
『鏡子の家』(1959年)
鏡をテーマにした短編集で、人間の内面と外面の関係を描いています。
『午後の曳航』(1963年)
思春期の少年が成長する過程での暴力や性に対する葛藤を描いた作品です。
『絹と明察』(1964年)
能楽を背景にした短編小説で、日本の伝統文化に対する敬意が感じられます。
『青の時代』(1950年)
若者の反抗とその後の成長を描いた作品で、三島自身の若い頃の経験が反映されています。
三島由紀夫の関連人物
- 川端 康成(かわばた やすなり):日本のノーベル文学賞受賞作家で、三島の文学界での同時代の作家。二人は親しい友人で、三島は川端の文学に影響を受けたとされています。
- 谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう):日本の文学者で、三島に大きな影響を与えた作家。谷崎の美的感覚や伝統的な日本文化への愛着は、三島の作品にも見られます。
- 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ):三島の作品に影響を与えた先人の作家で、特に短編小説の形式や心理的な深さにおいて三島の作風に影響を与えたとされます。
- 永井荷風(ながい かふう):耽美的な作品で知られる作家。三島は荷風の作品世界に共感し、その影響を自身の作品に反映させています。
- 太宰治(だざい おさむ):三島は太宰の才能を高く評価していましたが、その破滅的な生き方に複雑な感情を抱いていたようです。
- 安部 公房(あべ こうぼう):同時代の作家で、三島とは異なるスタイルを持ちましたが、彼の実験的な作品は三島の文学に対する一つの対抗点となりました。
- 山中 峯太郎(やまなか みねたろう):三島由紀夫が学生時代に影響を受けた人物の一人。三島は彼の作品に感銘を受けたとされています。
- 小川 未明(おがわ みめい):童話作家で、三島由紀夫が子供の頃から愛読していた作家の一人です。彼の作品は三島の文学的な感性に影響を与えました。
- 美輪明宏(みわ あきひろ):歌手、俳優。三島は美輪の美貌と才能に魅了され、親交を深めました。
- 岸田今日子(きしだ きょうこ):女優。三島は岸田の演技を高く評価し、自身の作品に出演を依頼することもありました。
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