【5分で分かる】中原中也(なかはら ちゅうや)生い立ち・代表作・長谷川泰子との関係

中原中也(なかはら ちゅうや、1907年4月29日 – 1937年10月22日)は、昭和の日本を代表する詩人の1人です。

30年というその短い生涯の中で多くの印象的な詩を残しました。

目次

中原中也の生い立ち

1907年4月29日、中原中也は山口県吉敷郡山口町(現・山口市湯田温泉)の中原医院で誕生。

両親の柏村謙助とフク夫妻は、結婚後6年目にしてようやく中也が生まれたため、中原家は大いに喜び、三日間にわたって誕生祝いを行いました。

当時父の謙助は軍医として旅順(現在の中国 大連市)におり、「中也」と名づけるよう手紙で伝えました。

生後6ヶ月で中也は母と祖母とともに旅順へ渡り、翌年、謙助が山口に任ぜられたため、一家は山口の中原家に戻り、翌年には広島に移動しました。

1911年、中也は広島女学校付属幼稚園に入園し、1914年に父が朝鮮に栄転した際には、母とともに中原家に戻り、地元の下宇野令小学校に入学。

1915年に父が中原家と養子縁組をして苗字が「中原」に変わりました。同じ年、弟の亜郎が脳膜炎で亡くなり、これが昼夜の詩作のきっかけとなりました。

1917年に父が中原医院を継ぎ、一家は山口に定住することになりました。

1920年、山口県立山口中学校に入学しますが、成績は振るわず落第したため、1923年に京都の立命館中学校に転校しました。ここでダダイスムに傾倒し、詩作を始めました。

京都では多くの仲間と知り合い、交友関係を広げていきました。長谷川泰子とも京都で知り合っています。

1925年、中学を中退して上京し、日本大学予科文科に入学するも、試験を受けずに退学。アテネ・フランセでフランス語を学びながら、詩作を継続。1928年、父が亡くなり、翌年の10月には詩集の刊行を考え始めました。

中原中也の文学活動

30という若さでこの世を去った詩人、中原中也。 短い生涯ながら、彼は多くの作品を残し、日本近代詩史に大きな足跡を残しました。

1926年、第一詩集『山羊の歌』を刊行し、詩壇に鮮烈なデビューを果たします。感覚的で叙情的な表現と独特なリズム感を持つ詩は、多くの読者を魅了しました。代表作には、「汚れつちまつた悲しみに……」、「在りし日の歌」などがあります。

詩集以外にも、翻訳や評論なども手がけました。 特に、フランスの詩人アルチュール・ランボーの翻訳は高く評価されています。

中也の詩は、自身の苦悩や葛藤を赤裸々に表現したものが多いのが特徴です。 しかし、その中に希望の光も見出すことができます。

中原中也と長谷川泰子

詩人・中原中也と女優・長谷川泰子は、20世紀初頭の日本文壇を彩った、最も知られるカップルの一つです。

1923年、京都で出会った二人は、泰子がプロダクションから解雇されたことをきっかけに同棲することになります。行き場のなかった3歳年上の泰子に、16歳の中也は「うちに来てもいいよ」と声をかけたそうです。

しかし、二人の関係は決して平穏なものではありませんでした。 中也の激しい性格や、泰子への束縛、そして経済的な困窮などが原因で、二人の間にはしばしば衝突が起こりました。

また、泰子は中也以外にも多くの男性と関係を持っており、その奔放な性格は中也を苦しめることもありました。

上京後の1929年、泰子は中也のもとを去り、すでに関係を持っていた小林秀雄の住む下宿へと身を寄せます

その後も中也と泰子は何度かの復縁と破局を繰り返しますが、二人の心の中には常に互いへの深い愛情が残っており、生涯を通じて強い絆で結ばれていました。

長谷川泰子と小劇場の演出家との間にできた子供「茂樹」の名前を付けたのは中原中也です。中也と泰子はすでに男女の仲ではありませんでしたが、奔放な泰子にとって中也は年下ながらも世話を焼いてくれる兄のような存在でした。中也は茂樹を溺愛し、泰子の仕事中に子守を引き受けたこともありました。

中也と泰子の関係は、多くの作品に反映されています。中也の詩集『山羊の歌』には、泰子への思いを歌った作品が数多く収録されており、泰子も自伝的な小説の中で中也との関係を赤裸々に綴っています。

30歳で中也が亡くなった際には、茂樹を連れて葬式に駆けつけた泰子が人目を憚ることなく大声で泣き叫んでいたということです。

中原中也の代表作

中原中也は、多くの素晴らしい作品を残した詩人ですが、中でも代表作としてよく挙げられるものをいくつかご紹介します。

詩集

山羊の歌(1926年)

中原中也のデビュー作であり、代表詩集の一つ。彼の独特な世界観が色濃く表れた作品集です。

在りし日の歌(1937年)

中也の遺作詩集。死後に出版されたもので、彼の晩年の心情が反映された作品が多く収録されています。

翻訳

ランボオ詩抄(1936年)

フランスの詩人アルチュール・ランボーの詩を翻訳した作品。中也の翻訳の才能を堪能できる作品集です。

中原中也の関連人物

夭逝の詩人、中原中也。 その短い生涯の中で、彼は多くの出会いを経験し、様々な人物と関わりを持っていました。

  • 小林秀雄: 文芸評論家。中也の親友であり、彼の才能をいち早く認めた人物。中也の詩集『山羊の歌』の刊行にも尽力しました。
  • 河上徹太郎: 詩人、小説家。中也と共に同人誌「白痴群」を創刊した盟友。中也の死後、彼の作品を世に広めるために活動しました。
  • 室生犀星: 詩人。中也を「天性の詩人」と称賛し、その才能を高く評価しました。
  • 草野心平: 詩人。中也の詩に共感し、親交を深めました。
  • 萩原朔太郎: 詩人。中也の独特な詩世界を認め、評価しました。
  • 富永太郎: フランス文学者。中也に詩作を勧めた人物。
  • 高橋新吉: 詩人、ダダイスト。中也にダダイズムの影響を与えました。
  • 三好達治: 詩人、文芸評論家。中也の詩を高く評価しました。

中原中也は、詩人としてだけではなく、友人、恋人、家族など、多くの人々に愛され、支えられた存在でした。彼の作品には、彼が彼らと過ごした時間、彼らから受けた影響が色濃く反映されています。

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